敬天新聞 令和6年3月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和6年3月号 4面)



▼最近ふと思うのだが女性であっても成功している人の殆どが、気性が男という感じの人が多いのである。

女優さんでも売れた人とか、成功した人の話を聴いてると、みんな「男前」なのである。

最近は特に「女っぽい」という人は、見掛けだけで、一人で居る姿は男なので「女は女らしく」というのは、あくまでも国が作ろうとした理想であって、自分を自由に表現できる今の生き方の方が、本当の姿かもしれない。

それに女性の中でも、男の前に行った時だけ、品を創る女性は、同性からは嫌われるらしい。

ところが単純な男はふにゃっとする女性が好きなのである。男っぽい女性を見たら、「あれはレズの男役だよ」という目で見たものである。今は堂々とレズもホモも世間に告白できる時代である。

ふにゃっとする女性と思って一緒になったつもりが、いつの間にか髭まで生えてきた女房を見て、ぎょっとした男性諸氏も多いのではないか。

過去が返って来るわけでもないし、今更言っても仕方がないかと諦めてる人は多いと思う、お互い様だけど。

恐らく一般の女性より、レズの女役とか、ホモの女役の方が、より女っぽいのかもしれないし、また逆も、普通の男より、より男らしいのかもしれない。

こういう世界は、今まで余り表には出なかったが、ジェンダーフリー時代になって、色んな事が表に出るようになった。

若い人から見れば、ごく普通に見える日常も、相手の顔も見たことのない人と結婚して来た高齢者から見ればとんでもない時代になってきたと見えるようである。

何年か前に芸能人の娘で、好きな人が出来たら必ず同棲すると言った女性が居た。理由は、「ひょっとしたら結婚するかもしれないし、相手の男性の全てを知るには一緒に住んでみないと本当の姿は分からない。セックスの相性も大事です」とテレビの中で言ったのである。

それを見ていた世のおばさんは驚いた。勿論、筆者も驚いた。だが今では、そのような言動をする若い女性が普通になって来て、最近では、爺婆まで世間に慣らされて来たのである。

確かにこの女性が言ってる言葉は間違ってはいない。一緒に住んで見れば、色んな事が分かるだろう。どうしても相性が合わないと思えば、簡単に同居を解消することもできる。

だが、正式に結婚してしまえば、いざ離婚しようにも、手続きが複雑で中々難しい。況してや子供とか居たら尚更その後が複雑になる。戸籍上もXが付く。

高齢者の爺婆は自分たちが受けた情操教育が正しいと思い込んでるから、一朝一夕に理解はできないだろうが今の爺婆が居なくなったら、性の自由化が大幅に変わるだろう。




▼暫らくのご無沙汰だった寺ちゃんの近況が伝わってきた。

老婆にも恋心があることや、時には醜さも、微に入り細に入り、監視カメラが真上についてる一等地の定石の席に座って、手ぶり身振りを交えて、大きな声で話すのが至福のひと時だった、あの寺ちゃんが、体の不調を訴え出した。毎日のように顔を出していた新橋に顔を出さなくなって来たのだ。

最初は普通に飲みだす酒であるが、時間と共に目が座って来る。レストラン中響くような大声で卑猥な話を始めるのである。

最近は電話をしても元気がない。もう10年も前から、「オラぁ、先に行くで〜、もう十分生きた。女も、酒も、博打も、他人の何倍もやって来た。もう、ここらでいいでよ〜。」というのが口癖で、10年も経ったのである。

講釈師見てきたような嘘を吐くと言うのか、法螺を吹くと言うのか分からないが、酒の量と共に、話がだんだん大きくなっていくのが特徴である。それでも人が寄って来るところが寺ちゃんの真骨頂で、根はいい人なのである。マスコミ連中が「繋ぎ」で頼りにしていたのも事実である。

酒が入ると「知らない町を旅しながら、野垂れ死にするのが夢」と言っていたが、その割には、この何年かは近所の婆さんに夢中だった。

あれだけ酒が大好きだった、あの寺ちゃんが、このところ酒を飲んでないと言う。体が酒を受け付けなくなったと言うのだ。

山頭火の歩んだ道を辿って、知らない旅先で野垂れ死にするのが夢と自分の言葉に酔いしれながら飲むのが至福のひと時だったようである。根はやさしい人である。

カラオケが大好きで、大きな頭を上下左右に大きく振りながら歌う独特の歌唱で、女性陣を魅了した。寺ちゃんファンは多い。特に年季の入った女性には、あのダジャレが受けるのか隠れファンも多く、二回目、三回目に会った頃には、只ならぬ関係になっていた。男冥利に尽きる一語である。

そしてその女性たちを同じテーブルに呼んで一緒に酒を飲む技術さえ持っている。女同士がどんなに火花バチバチでも、全く気にも留めないで、酒とダジャレで乗り切るから凄い。

私が「早く旅に出ないと、旅に出るのさえ億劫になるよ」と言っても、「猫にマタタビ」とダジャレで返す元気さはまだあった。

「最近は若い女性を見てもムラムラしなくなったよ。」と言うから、「それは歳相応だよ」と言うと、「いや街に住んでるから」と返すのである。

そして日本酒を一口飲んでは自分で目と尻を指して「目と肛門(水戸黄門)と独り言を言っていた。



▼40代の女性が「若い人と中年の差は、うるおい成分が無くなること」と語っていた。

何をおっしゃるウサギさん。そんな事言ったら、高齢者の立場はどうなるの。塗っても、塗ったくっても、補強も・補修もできないじゃないか。

過日、警察に呼ばれた時、指紋を取られたが、水分が無いのか、年月の経過に指紋さえ薄くなってるのか分からないが、中々指紋採取が出来なかったぐらいである。

考えて見れば女性は皺の隙間にさえペンキを塗りたくって変身できるが、男は自分の素顔が全く分からなくなるほど塗りたくる歌舞伎役者ぐらいしかそんなことはできない。あ〜筆者も歌舞伎役者になればよかった。

世間の一部では、どうせ傾奇者(かぶきもの)と言われているらしいから。水分があった頃が懐かしいな〜。

中年は毎日世の中から足を引っ張られ生きているが、爺婆は毎日、世の中からは押し出され、あの世から足を引っ張られて生きている。それを忘れる為に、頭の中が混乱するように作られているのだろう。記憶喪失になったり、食べた物を忘れたり、自分が誰かさえ忘れてしまうのである。

脳が高齢化すれば、忘れてしまうのは理解できるが、食べた事を忘れて、次から次に何回でも食事する現象が起こる老人も居るらしいが、一度腹一杯になったら、時間の経過が経つか、或いは排便が無いと食事はできない筈である。

食べ終わって直ぐに「まだ食べてない」と言って食事を要求し、食事を出せば何回でも食べる高齢者もいると聞いたことがあるが、その食事は何処に入って行くのだろう。

老人は顔だけじゃなく、体中がしわしわだから、幾らでも表面が伸びる「伸びしろ」があるから、その肉と皮の間の隙間に幾らでも入って行くのだろうか?

今に思えば、40代、50代でも、十分に若かったのに、その若さの有難さが当時は理解できなかった。幾つになっても、人は過ぎてからしか理解も反省もできないのだ。

古稀を過ぎても喜寿や傘寿の人から見れば、十分に若いと言われるのだから、その言葉を信じて、毎日を有意義に生きることにしよう。

念の為に傘寿を過ぎた高齢女性に、「高齢者になったメリットはどんな事が有りまか?」と尋ねたら、たった一言「ない」だった。

赤ちゃんの時は、あんなにツルンツルン、プリンプリンだったのに、年月の経過というのは怖いものである。


敬天ブログ敬天新聞トップページ敬天千里眼社主の独り言