敬天新聞 令和6年5月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和6年5月号 4面)



▼今の野球のことは余り知らない。昔は巨人のメンバーぐらいは1番から9番まで選手の名前を言えた。ところがある事件があってから、野球を嫌いになって見なくなったのだ。 それは「江川事件」だった。作新学院で大活躍した江川選手を「空白の一日」という悪手を使って、栃木を地盤にした政治家の秘書が出張って、強引に巨人に入団させたことである。

江川選手に罪は無かったが、あれ以来江川選手は、悪者役にされてしまった感がある。

しかし、今の江川氏は非常に優しく思いやりのある人で、親切な人であることを、テレビの端々に感じる。野球技術に関する知識も豊富だし、人柄も尊敬できる。あれから、何十年経つか知らないが、江川氏も損な役回りをした一人だったろうな〜、と回顧する。 人生というのは、その人の感性や生き方に関係なく、人から評価されてしまう部分がある。有名人であれば尚更である。有名人というのはつくづく大変である。

一方で、時々のスターになったりする人たちも沢山いる。今はダントツに大谷翔平選手である。他にも各界にスター選手は何人もいるのだが、彼の前では皆霞んでしまうのである。

桁違いの活躍もそうであるが、雰囲気の爽やかさが抜群なのである。別に飾ってるわけでもないのに、何故か爽やかなのである。

アメリカの大リーグと言えば、日本のプロ野球とは比較対象にならないような雰囲気を醸し出していた筈なのに、いとも簡単にそのカラーを破り、しかも幾つも記録を作って、今や日本野球を同レベルに引き上げてしまった感さえするのである。

体つきも外人に比べて貧弱と言われていたのに、全く見劣りしないがしないし、奥さんまで、全く見劣りしないのである。

昔、野球の野村克也監督が大リーグでも活躍した田中将大選手が高卒から入っていきなり活躍した時、「マ〜君、神の子、不思議な子」と言って、マ〜君の活躍を褒め称えた時があったが、そのマ〜君にも陰りが見えてきた。時代の流れを感じる。人は誰でもいつかは老いるのである。

受け継がれるスポーツもあるだろうし、途中で消えゆくスポーツもあるだろう。我々が子供の頃に遊んだメンコやビー玉だって、庭の土に穴をあけて遊んだり、土の上で引っくり返して遊んだものである。

何年か先には月まで日帰り旅行が出来る時代が来るかもしれないらしいけど、棺桶に片足突っ込んだ状態の、そこの貴方、全く関係のない話です。



▼言葉でも、文章でも、同じ言葉で続けて繰り返すと、軽くなったり、重くなったりする言葉がある。印象さえ悪くなる言葉もあったりする。「間」とか、繰り返しとか、気を遣うのである。

「ありがとう」という言葉も、感情がこもっていれば、本当に助かったような感謝の言葉になるが、二回重ねて、しかも最後の「う」を省いたような「ありがと。ありがと。」と言うと、軽く取られてしまうこともある。

「ありがとう」は感謝を表す言葉だから、できることならその真意が相手にしっかりと伝わってほしい言葉なのであるが、うっかり間違うこともあるのだ。

感謝の言葉より難しいのは謝罪の言葉である。感謝の言葉は相手に喜んでもらえるような言葉を伝える自分の気持ちの表現だから、少し間違っても、愛嬌と理解してもらえる可能性で済むが、謝罪の場合はそうはいかない。

謝罪は何かのミスをしたと思う時にする挨拶だから、先ずはその雰囲気から暗くなければならない。いかにも重い空気の中での発言からスタートするので、心が痛い。

自分の言葉で反省の態度を示すのが一番いい方法であり、前もって練習はしてその場に臨むものであろうが、いざとなればスムーズに言葉が出て来ないものである。

例えば、普段反省について指導を教えているような先生でさえ、いざ自分のことになれば、一般の人よりかは当然上手いだろうが、普段通りにできるかどうかは分からない。世の中とはそんなものである。

人の過ちというのはよく見えるが、自分の過ちに気づく者は少ない。毎日どこかで、感謝と謝罪についてのニュースが取り上げられているのだが、自分には全く関係ない出来事として見てるから、いざという時には、何の役にも立たないのである。

こういう立場に全く縁のない人もいるのだろうが、こういうのは、ある日突然やって来るのであるから、普段から心掛けれるものでもない。

人生そのものが、見た目には毎日同じことの繰り返しのように見えて、毎日が同じではないのである。心の成長もあれば衰退もあるし、体の成長もあれば衰退もある。

そこに周囲に居る人々との出会い、別れ、憎しみ、憤怒、あんなに仲良かった人たちがなんで〜? あんなに仲が悪かった人がなんで〜? という関係になることさえある。人の世は何とも複雑怪奇なのである。



 

▼埼玉県の熊谷警察署管内で起きたひき逃げ犯を追いかけている女性がいるという記事が出ていた。あと一年で時効らしい。

色んな犯罪に時効と言うのが出来た理論も理解はできるが、やはり悪質な犯罪においては時効は無くすべきだろう。特に命に係わる犯罪に関しては、時効は無くして欲しい。

殺人に関してはやっと時効はなくなった。ひき逃げの場合も、直ぐに対応して、救急車や警察に自ら通報して、自ら対応をしていれば、例えば助かる命もあったかもしれない訳で、卑怯にも逃げ去ったから被害者が亡くなったというケースの場合は、やはり罪は格段に重くなるわけである。

交通事故もその後の対応次第では、準殺人罪に認定していいのではないのか。

確かに事故を起こした状態の心理は、一瞬頭の中は真っ白くはなるだろう。仮にたとえ逃げたとしても、その後に事件報道はされるわけで、被害者が亡くなったことはわかる筈である。

事件から何日か経って冷静に現実を理解できるようになっても、出頭しないという事は、人をひき殺した事実を認識していても出頭しないわけだから、やはり重大な犯罪を犯したことに等しい筈である。

そう考えれば、同じ交通事故でもひき逃げ犯に対して、やはり時効はおかしいと思う次第である。どうしても時効が必要と言うのであれば、もう少し延ばすというのは、どうだろう?

何でもそうだが、逮捕された時はショックであろうが、早く逮捕され、早く刑期を終えて出て来た方が、第二の人生を新しく迎えられるのである。

その時、世間の目は厳しいかもしれないが、ひたむきに生きていれば、新しい生きがいが出てきたり、支えてくれる友人も出来たりして、逃げて隠れて生きるより、余程いい人生が待ってる事だろう。

確信犯の犯罪者には、かける言葉もないが、ちょっした躓きで、ちょっとした不注意で、事故や事件に巻き込まれた人には、立ち直る機会は幾らでもあるわけだから、今逃げてる人は、迷わず出頭することをお願いしたい。

ひき逃げに時効は似合わないと思う。不注意から起こした事故であっても、卑怯にも逃げたことで、その結果助かる可能性があった命が、奪われたのであれば、殺人と何ら変わらないではないか。

従って、交通事故でもひき逃げの結果、相手が亡くなった場合に限り、時効無しという考えを推奨したい。


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