敬天新聞 令和6年4月号 社主の独り言(甘口)

(敬天新聞 令和6年4月号 4面)



▼「社主の独り言」はだいたい甘口で書くように気をつけている。

他の三面で厳しい記事が多いから、読者の皆さんにホッと一息入れて頂きたいと、三時のおやつと温かい日本茶を飲みながら、読んで頂くことを念頭に置いて、記事を書いているのである。

私の普段の愛想のない仏頂面と文章の内容が合わないらしく、本当はゴーストライターが書いてるんじゃないかと、未だに疑う人が多い。

一文1000字ぐらいの記事だし、日記レベルの記事であるから、記事という程のものでもない。
色んな事象について、思った事、感じた事を書いているだけである。

ただ昔ほどスラスラとは書けなくなった。
テレビやニュースで話題になったことをメモしておいて、自分の意見を書くのだが、直ぐに忘れてしまう高齢者の特徴が出て来て、文章が纏まらなくなってきたのだ。

幸い身の丈で書いてる独り言を、身近に感じて下さる人たちも居て、30年も続けて来れたのである。

例えば、昔話も子供達には道徳として作られている場合が多い。3歳ぐらいまでは信じる子供もいるようだが、教える側の親の方が子供教育に余裕が無いのか、優しさが教育の全てと考えてる親も多いようである。

勿論優しさは何よりも大事だろう。だが優しさだけでは世間を渡れないこともある。

子供は国の宝だと持て囃されるのに比べて、爺婆は生産性のない無駄飯食いと批判される立場である。特に爺は退職したら、社会でも家でもゴミ扱いである。

雄には実際に世の中で働いて生産性を上げて来たのは我々ではないかと言う自負がある。それなのに家庭でも社会でも、高齢者になってからの地位の低い事この上ない。

挙句に女性より10年も早くこの世を去らねばならない。これも世の習いだから仕方あるまいが。力は雄の方が強い代わりに生命力は雌が強いように神が創ったのであろう。

お爺さんは出て行くところもなく、テレビを見ては、時々テレビに向って、一人で話しかけていました。そんなお爺さんをほったらかしにしてお婆さんは、お爺さんの為にコンビニに売ってある弁当だけ用意して、毎日友達とショッピングや食事に出かけていました。そんなある日、いつものように明日の弁当を買って家に帰るとお爺さんはポックリ死んでいました。お婆さんはお爺さんが死んでからというもの、今までにも増して元気になって、楽しい毎日を過ごしているんだとさ。創作現在話の一席でした。



▼私は街宣に行くときは、安全靴に防弾チョッキを身に着けている。緊急事態に備えての服装である。

世の中は何が起こるか分からない。動きづらくはあるが、安全・安心が大事である。

家でも冬場は綿入れに、丹前を着ている。動きにくくはあるが、利点は多い。高齢者になると、何でもない所で転んだり、ぶつかったりするのだ。そんな時にケガをしなくて済むのだ。

欠点はトイレに行くのに不便である。小便するのに、社会の窓が見つからなくて、やっと見つかったと思っても、珍宝を引っ張り出す前に漏れてしまったりするのである。

高齢者になると転んだだけで、大腿骨が折れたとか、腰骨が折れたという話をよく聞く。若い頃は、だいたい歩くだけでは転ばない。仮に転んだ時でも精々がかすり傷であり、バンドエイドか赤チンでОKだったのであるが、高齢者になると、平らなところでさえ、引っ掛かって転ぶのである。それも擦り傷では済まなくなるのだ。要するに、自分では足を上げたつもりが上がってないのである。

昔田舎では冬には、子供は綿入れを着て、爺さん婆さんは皆丹前を着ていた。転ばぬ先の丹前だったのだろうか。もっと防御するなら、尻の周りに座布団を巻き付け、頭にも頭巾をかぶるべきである。こうなれば、まるで戦時中の姿であるが、私はこういうスタイルを何故か全く気にしない。とにかく楽な恰好が好きなのである。命を守る為なら見てくれなど二の次である。

この格好だと、少々の乱闘になっても身が守れる。高齢者でさえ自分の命は自分で守る時代になった。このスタイルを、終戦後のゲートルを巻いてる兵隊さんの姿にダブって見えて面白い男だと興味を持って頂いたのが、渋谷の愚連隊として売り出した安藤昇氏だったのである。

私は後年の安藤先生の事務所に遊びに行き、先生のリハビリ麻雀の相手をした。私は並べるだけで、点数等全く数えることなどできない。左から順に並べないと、何処に何を持ってるのか、自分の手さえ分からないレベルである。

だから三回廻れば、うまい人は私の手の内は判るらしい。安藤先生はマヒで片手を使えなかったので、片手でパイを積まれるから、その遅さが私には丁度いい感じだったから、常に私は安藤先生の後番になる席に座れるようにお願いしたのである。

勿論私はいつも負けに決まっていた。安く賭けてはいたが、参加者も皆先生のリハビリに協力するための参加だった。その時の秘書が今は売れっ子作家になった空手家で保護司でもある向谷匡史氏である。



 

▼先日、79歳の高齢者と75歳の高齢者の誕生日祝いを77歳の高齢者と72歳の高齢者が祝ってあげると言う名目の飲み会に参加した。

75歳の高齢者は何と今上天皇と同じ2月23日が誕生日で、79歳の高齢者はその翌日の24日生まれという事で、例年仲良く誕生会をしてきた仲だそうである。

77歳の高齢者に話が伝わると、その日のうちに知人に知れ渡ると言う新橋放送局と言われる人物である。

二人の縄張りが新宿大久保だから、72歳は大久保での主催を主張したのだが、77歳が三田五丁目から近い新橋を選択したなと思い、一言言おうとしたら、新橋には75歳の知り合いの店があると言うので、そこの居酒屋に決まったようである。

昼の2時に新橋駅前交番前に集合だと言うので、家を12時に出て、駅まで歩いて電車に乗って行くことにした。

高齢者は暇だから、時間通りに待ち合わせ、目的の居酒屋に集合した。その居酒屋は、75歳の常連らしく、贅沢な料理に舌鼓を打ち、店がケーキまで用意してくれていた。

72歳は自宅が遠いので、5時には帰る予定であったが、同じビル内にカラオケ店もあると言うので、せっかくだから、歌でも唄って帰ることにした。

食事の席では左程でもなかった77歳の高齢者であったが、支払いが終わったら安心したのか、カラオケ店に入ったら、急に酔いが回り出したのである。

接待する側の77歳は、当日持ち合わせが少なかったらしく、支払いが気になってしょうがなかったようである。それを通過し、カラオケ店の料金まで含まれていると言われ、急に元気になり、酔いも一気に回ったようである。

祝ってあげる側の77歳が、酒が入るに従って目が座り出し、カラオケ店に入って他人が歌い出したら、必ず「二番は俺に歌わして」と言って、他人の歌を横取りして、大きな頭を右に左に縦に横に振りながら歌いまくり、挙句の果ては、帰る頃になると、「俺にも一曲ぐらい歌わして」と宣い、「一人で歌ってたじゃないか」と72歳の高齢者が言うと、「俺は一曲も歌ってないよ」と平然と77歳が言い返していた。

何はともあれ、祝う人が149歳、祝われる人が154歳の合計年齢300歳を超える、高齢者が高齢者を祝う誕生会は無事に終えた。

新橋駅で皆と別れた72歳は、新橋駅から上野方面行の快速電車に乗った。爺婆優先席に座っていたら、三河島、南千住という聴き慣れない駅名が出て来たので、思わず隣の爺婆優先席に座っている若者に、「この電車大宮に行きますかね?」と尋ねたら、「これは常磐線ですから、次の北千住で降りて、日暮里に戻って、京浜東北線に乗り換えて、終点の大宮に行った方が安全で速いです」と言われて、慌てて乗り換えた。確実に30分はロスしたのである。

こういうミスは今までは無かったが、これも高齢者の為せる技である。高齢者の飲み会は珍島物語である。


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