敬天新聞 令和5年5月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和5年5月号 4面)



▼公務員には守秘義務がある、一応。一応というのは、建前と言う意味である。誰もが知らない秘密を知ったら、優越感に浸りながら、誰かに話したいものである。

 例えば職場から遠く離れた、同窓会などの場で。そういう場所では、直接関係ある人は居ないだろうし、酒も入ればついつい誰も知らない自慢話の一つもしたくなるものである。こうして現実には、守秘義務も駄々洩れなのではないだろうか? そんな話はよく聞くからである。

 しかし本当に厳守しなければならない守秘義務というのは、そこら辺には余りなく、そこらへんで「守秘義務」と言われているのは、概ね一般人を納得させるだけの建前に過ぎない漏れても全く問題ない守秘義務なのではないか。

 本当に国の根幹に関わるような守秘義務はそこら辺では守り切れないだろう。それに知らなければ喋りようにも喋られないが、知ってしまったことを誰にも話さないと言うのは、中々難しいことである。

 ところで上流階級と言われるような夫婦の場合、機密事項をお互いに知り得る立場の者が多いと思うが、お互いに話題にしないのだろうか?  上流階級の夫婦の雰囲気や生活は我々凡人には想像もできないので、全く分からない。もし夫婦ならこの問題も共有でいいかと言って、夫婦間では語り出すのか、いやたとえ夫婦であっても職業上知りえた極上機密は、決して漏らすべきではないと、頑なに秘密にするのか、気になるな〜。

 そこでおじさんの推測。8割の人は、仲のいい夫婦であれば喋る。残り2割の夫婦は、国の根幹に関わると信じ、たとえ夫婦といえども、上司との約束を守り、一切口外しない(普段から夫婦仲がうまく行ってなく会話が少ない夫婦も含む)という感じじゃないかな〜。

 人生も残り少なくなって、経験も豊富になると色んなものが見えて来るようになる。そこで立ち上がる人もいれば、立ち上がってもしょうがないと思う人もいるし、立ち上がろうとするがあっちこっち故障して立ち上がれなくなる人もいるし、「いい歳して何考えてるの?」と家族に叱られる人もいる。

 そんな時は独り者が楽である。柵に縛られない。すべて自己責任で判断できる。

 それでも判断できずに困った時は黒門町の利蔵親分に相談する手もあるが、利蔵親分は新橋の酒蔵の隅っこで、爺婆素人ダジャレ三段の口上を披露するのが生きがいの人だから、「自分の息子も立たない歳になって、自分が立ってどうするの?正解は立たない」と言いそうだが、人生はあなたの物。せっかくこの世に生まれてきたあなたの命です。どうぞ悔いのないように最後までしっかり生きて下さい。とはいっても、人生は悔いだらけなのである。

 しかし、悔いのない人生を送ったなんて言える人はそうは居ません。いま絶好調の大谷翔平選手だって、長い人生の中ではいずれ谷に落ちたり壁にぶつかることもあるでしょう。それが人生なんです。それにしても歯が無いと不便だな〜、はがない人生。




▼人生は常に今が勝負で、過去の栄華など何の役にも立たないこともよくあります。特に伸び盛りの人は、誰かにお世話になった事実があっても、そんな過去は寧ろ隠して自分の栄華に酔いしれたいものです。

 よく「あれは俺が面倒見た、俺が育てた」という人がいるが、その時点でその人に負けてることを宣言している事と同じで、それを聴いた相手は「まだそんな事を言ってるの? いつの話をしてるのよ」と、周囲には話してる筈である。一冊の昔話本として纏める時は兎も角、普段はしない方が重みもあろう。

 どこかで会えば、当然相手は挨拶に来るだろう。それ以外では疎遠になってるとすれば、それは「今はその人の力を必要とはせずとも、その世界で十分一人で歩いて行ける力を蓄えたこと」の証左でもある。

 寧ろ、その人の名前を他人に話さなければ、自分の存在に重みが無くなってきていることが自分自身で分かるから、必要もないのに他人の名前を出す証拠であろう。

 今までの実績と今の生き方で、これからも十分生きていける(通用する)のに、必要以上に過去をひけらかすのは、それらを必要とする類の連中を集めるばかりで、その人の価値を安くしてしまうことに他ならない。

 人は常に成長している。新しい出会いもある。「男子三日会わざれば刮目して見よ」という言葉もある。古い出会いより、新しい出会いに、より成長や有意義さを感じれば、新しい付き合いが大事になって行くのも仕方のないことである。 誰でも高みを目指して日々努力をしているわけだし、より上へより上へと歩んでいる。才能のある者は、いつか教わった人さえ乗り越えて行くものである。

 中には口先だけで、あるいは運だけで、という者も居よう。そこに嫉妬したところで、何も生まれまい。

 プロのスポーツ選手を見てみればいい。アマチュア時代には、すべて地方では英雄のごとく扱われ夢を掴んだごとく扱われる。しかしその世界に入れば普通の評価しか受けず、凡人で終わる人も居る。

 それらを育てた監督さんでも「俺が育てた」と自慢する人の所には、大きくなった選手は余り帰ろうとはしない。

 大きく伸びた選手には、監督の指導の良さの他に、本人の才能、努力、家庭環境、親の協力等、色んな条件が重なって、現在の成功に繋がっているのである。決して、その中のどれかだけが突出して才能を開花させたと言う事ではないのである。

 時は常に流れている。独り一時(いっとき)のノスタルジアに浸るのはいいが、普段の仕事に過去の話を常に持ち出すのは、却ってその人の価値を下げることの方が多いのである。

 人の振り見て我が振り直せと日夜努力はしているが、袖すり合うも他生の縁と、日々の生活に流されて、少しも成長しないのが人の性でもある。そして時は暮れていくのである。




▼最近、日本に四季が無くなった感じがする。春と秋が無くなって、夏と冬しかない感じである。四季ではでなく二季である。

 昔の春と秋の代わりに来る季節は、暴風と暴雨である。と感じている人も多いのではないか。暦に出て来る季語と言うのが全く当てはまらなくなった。

 世界には四季がない所は多い。二季とか、一季とか、言う場所もあるらしい。タイからきた観光客が「タイには四季が無いから日本の雪に感動した」というニュースをやっていたが、現実にそんな国もあるようである。

 南極や北極にも名前こそ夏や冬もあるようだが、日本の感覚からすれば、一年中冬である。そんなところは逆に季節が増えているのだろうか? それに今はジェンダー時代で、考え方も働き方も多岐、多様に亘っている。その全てを認め合う時代になってきた。

 頭のいい人は頭を使えばいいし、体に自信のある人は身体を使って働けばいいだけの話である。

ただ自由を無制限に広げて行ったら、詐欺とか窃盗とかが横行するだろうし、犯罪が無制限に増加するのも事実だろう。それを力で抑え込めば社会主義国のようになってしまうだろうし、やっぱり程々の境目で、行ったり来たりするしかないんだろうね。

 こういう考えが芽生えたのも老人力が着いたからかもしれない。同じ景色でも見る角度や場所によって全く違って見える。季節によっても違うのと同じで、年齢の経過によって、物の捉え方はずいぶんと変わって来る。

 歳を取ると、肉体的変化を年々受け入れざるを得ない。それを素直に受け入れた方が、心も楽になるのは分かっているが、中々素直に受け入れられないのが、人の性なのであることも事実である。

 老婆は行動範囲が狭まるので、井戸端会議が好きである。勿論、しっかりと本音と建て前は弁(わきま)えている。

 それに比べて老爺は、井戸端会議の経験が無いから、建前と言う概念が分からない。いつも正直に本音で喋る。それで周囲に嫌われる。嫌われるから外に出ない。出なければ世間が狭くなる。女房だけが頼みの綱である。

 その女房が亡くなると話し相手も居なくなるし、自分のわがままを聴いてくれる者が居なくなる。それで部屋の中に閉じこもり、スーパーの弁当を食べながら、テレビに喋りかけるのである。女のように応用が効かないのである。

 また歳を取ると、子供にも嫌われる親が多い。大抵の場合、子供は母親の方が好きである。

 本当は父親が働いて来て生活費を渡しているのだが、子供から見たらいつも家に居て、掃除、洗濯、ご飯を作ってくれるのは母親で、何かを相談するのも母親だから、親しみが湧くのだろう。

  家庭を顧みない、飲む(酒)、打つ(ギャンブル)、買う(女)が常習の、生活費も入れない男など言語道断だが、頑張って働いてきても、最後には冷たくあしらわれる男も悲しい末路である。これが男女長い生き度十年の差なのである。 やっぱり夫婦なんて狐と狸の化かし合いなのかな〜。

 ところでマコとミコの小さな風呂場の愛って純愛? それとも・・・。



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