敬天新聞 令和5年4月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和5年4月号 4面)



▼また花粉症の季節がやってきた。若いころ花粉症が酷く、鼻水はタラタラ、目は痒く、しかも夜になると今度は鼻が詰まって息ができなくなる。そこで口を開けて寝ると、翌朝には喉が腫れて痛くなった。この季節だけは、兎に角辛かった。

それが老化と共に、花粉症の症状も薄れすっかりこの季節があることを忘れていたのだが、何年か前から再燃したのである。特に鼻水、鼻詰まりに苦労した。

しかし、その間治療薬も進化したのか、薬局に売ってある薬で大いに助けられたものである。

私に合ったのは奥田製薬の「グットエイド点鼻薬クール」と言う薬だった。一見、「鼻づまり」と「鼻みず」という相容れない症状のような気がするので、半信半疑で使用してみたが、私には本当に効いた。これで何とか花粉症時期を乗り切ったのである。

目の痒みはロート製薬の「ロートZ!」が効いた。瞬間痒みが止まる。私はインフルエンサーでもないし、ステマという今流行の、八百長広告を頼まれているわけでもない。自分の経験から感じたことを書いている。

敏感だから花粉症になるのか、鈍感だからならない人が居るのか知らないが、ま〜花粉症のきついこと。歳を取ると体中が鈍感になるので、花粉が飛んでくるのも感じなくなるのだろうか? 

最近は老人力がしっかり、体の隅々まで身についてきたのか、記憶力が落ち、注意力もなくなり、車の運転も下手になった。体力も落ちたし目も悪くなった。当然体中も鈍感になる。それなのに、なんで花粉症だけが再燃するのだろう。花粉症も鈍感になるのが当然のような気がするのだが。今年は飛散量が多いらしいから、今年デビューする新人も多いらしい。

ところで、この花粉症は人間だけだろうか? 自然界で生きてる狐や狸もなるのだろうか? 狐や狸が花粉症になるなら、像やライオンもなると言う理屈になる。

目が痒くなったら像は長い鼻で掻くからいいだろうが、ライオンは爪で掻くだろうから、目を傷つける可能性もあろう。二次災害が心配である。手のない蛇は長い舌か、しっぽで掻くのだろう。 それにしても自然界で生きていくのは大変だな〜。人間に生まれて、よかった。ロート製薬さん、奥田製薬さん、ありがとう。




▼袴田事件の判決に対して検察が特別抗告を断念した。法的に屈したと言うより、世論の声に配慮したのであろう。

世論の声を無視したら、どんな組織であっても瓦解する可能性はある。だから優秀な運動家は常に世論喚起の運動を展開する。

日本では外国のようなデモで騒ぐという手法は、なかなか国民に受け入れられない。執念を持って体制に対峙する左側陣営が国民の支持を得れないのは、ただ反対するだけで、体制側に取って代わる案を持ってないことの一語に尽きる。

外国ではデモから体制が変わることはよくあるが、日本ではこの手の手法は受け容れられない。おそらくデモに乗じて盗みや強盗のような連中が一緒に騒ぎ出すので、そういう行為が受け入れられないのである。

一方体制を倒す側は、体制をひっくり返すためには手段を択ばない。猫の手も強盗団の手も借りるのである。勧善懲悪を好む日本人には、強盗団まで仲間に入れるような政治団体は受け容れられないのである。

日本で体制側集団の代表と言えば、自衛隊、警察官、消防署隊員、などが代表であろう。日本ではこの人たちの公務に対しては国民が非常に肯定的で支援する人は多い。国のために、国民のために働いているという理解が強いのである。確かに国民の安全・安心はこの人たちに守られているというのは、厳然たる事実であろう。

袴田事件の真相はわからない。だが、50年間も人殺しとして世間に周知され「死刑囚」という最高の汚名を着せられ晒されて来たのだし(もう十分苦しんだのではないか)。

今流れは間違いなく再審請求の方へ流れている。ここで我を通せば、検察の権威さえ失墜しかねない。現に安倍政権時に魂を売った検事幹部などもいた。

やはり政権の言いなりである印象を国民に与えれば、国民から信用を失うだろう。国民は犯罪者を憎むし犯罪者には厳しく対峙する検察が好きである。

しかし世の中の関心が高い事件とはいえ、50年も前の事件であるし、再審を求めてる事件に対しては関係者以外は意見が言いづらい。声を出す側に正義があるように見えるのである。

ただ袴田さんのお姉さんも検察が特別抗告を断念したことに感謝の言葉を述べたことでもわかるように、ノーサイドと世間の空気を呼んだのだろう。大岡裁きの前の大岡判断であったような気がする。




▼17、18歳の頃は箸が転がっても笑うらしい。人生経験が少ないから、見る物、触る物全てが新鮮で楽しいのだろう。

先日飛行機で修学旅行生と一緒になった。飛び上がった瞬間に大きな歓声が起こる。恐らく半分以上の高校生が飛行機に初めて乗ったのではないか。

楽しくて仕方がないのだろう。揺れたり、傾いたりする度に、大きな歓声が起こる。

彼等だって50年も経てば、人生経験豊富な爺婆になるのである。ただ若い人は生きていく上で全てに経験がない。それを教えてやるのが爺婆の役目である。

しかし役目であっても、押し付けてはいけない。理由は人それぞれに捉え方が違うからである。自分ができるから他人もできるという押し付けは良くない。

子供や若者の10年は長いが、爺婆になると、10年は短くて速い。若いころに習った歴史問題なんか遠い昔の話だと思って居たのに、200年前の江戸時代なんかが、ついこないだの話のように思えて来るのである。

若い時、歴史に出て来る偉人の話は、この世の先が見えない程遠い昔の人とばかり思っていたのに、爺婆が知り合いばかりになってくると、この世の終わりも見えて来るようになるし、鎌倉殿の13人も、どうする家康も、そんなに遠い過去の人では無くなるのである。

子供の頃には、親の話や、爺婆の話は遠い昔の話で、どうしても理解出来なかった。今思えば、学校の先生たちも殆んどが30代や40代だった。

子供から見たら、すごく大人である30代や40代であっても、爺婆から見れば、羨ましいほど若いのである。となれば、爺婆は一体何を楽しみに生きてるの? ということになる。

ところが不思議なことに爺婆は爺婆で、それなりに楽しんでいるのである。

爺婆の楽しみは年金の振り込み日。大多数の爺婆は年金の振り込みを待って、友達の爺婆とスーパーマーケットに行くのが楽しみである。

普段も開店前からスーパーに並んでるのは、爺婆だけである。

爺婆は待つのは全く苦にしない。自慢話と他人の噂話をするのが大好きだから、開店前に1時間ぐらい待つのはお茶の子さいさいなのである。

経験というのは何にも勝る指導者と言う事であろう。何でも分かるようになったら、人生は終わりと言う事だね。だからいいのかもよ。

若者よ、夢に向かって頑張れ。一度や二度の挫折で人生を捨てることはない。何度でも何度でも挑戦してれば、生きててよかったな〜、と思うことが必ずあるよ。そんなことを教えてくれる爺婆もいる。




▼それでは仕事もしなくなった爺婆は、何で一日が終わるのを早く感じるのか? することが無いので、十分に時間を使え、ゆっくり過ごすので、相当一日を有意義に過ごせそうである。  

ところが爺婆は何をするにも動きが遅い。遅いだけではなく、今自分が何をしてるかさえも忘れてしまう。病院に行く必要が無くても、毎日行かないと落ち着かない。病院に行けば、顔見知りの爺婆がいて、そこで持病の自慢話を一くさりして、薬を沢山貰ってきて、友達の爺婆にあげるのも優越感に浸れるひと時でもある。  

スーパーに行っても、出会った爺婆と、昨日会ったばかりなのに、また懐かしく話しかける。いつまでも立ち話するのである。  

道草をしながら帰れば、もう夕方になる。飯を食ったら、もう寝る準備である。8時になったら就寝で、夜中の2時ぐらいには目が覚めて、ゴソゴソすれば住人に怒られるので、空が明るくなるまで、布団の中でじっとしているそうである。  

高いびきで寝ている隣の婆さんの手でも握ろうものなら、「何を考えてるの?」と、張り手が飛んでくるそうだ。爺も結構辛いのである。  

コロナ禍で私が爺婆情報を収集していた、役所が運営する爺婆スポーツランドが、ずっと営業を休んでいるため、爺婆情報はマコに頼っていたのだが、最近はマコも歳のせいか、ミコの所に入り浸りで、新橋にあまり顔を出さなくなった。たまに顔を出しても、街宣の場には顔を出さず、ミコの所に直行するのである。  

マコには情夫としての才能も大いにあるようである。武器は口の軽さと顔の面積の広さと男っぷりである。落とすのは婆だけではない。若い娘にもモテるし、顔は整形手術で失敗していたが肌と乳首が綺麗だった主婦にも、木綿のパンツのゴムひも跡が腿に深くついてるおデブちゃん親子でも、み〜んなマコのファンなのである。それが心配でミコは何度も電話してくる。娘の秀美ちゃんもライバルだとか言っていた。  

ただ忘れていけないのは、今の日本の繁栄を担って来たのは、間違いなく爺婆の頑張り・努力があったからこそ。せめて言いたいこと言って、やりたいことやって、最後に少しの花を持たせてくれよと心で思いながら、人生は黄昏ていくのである。


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